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- <まえがき 建設予定地>
- これは私のたわごとを綴る私的覚帖である。
- いずれ まえがきには、岩波文庫にあるがごとき志し高き「発刊の言」を書きたいと予定しているが??・・・・。 古いものや小難しいものは倉庫に移した
11年11月或2日 追加 薪に関する林野庁指標値 設定
林野庁は、放射性物質が灰に濃縮されることを確認したうえでその灰中の濃度が8000/Kg以下になる数値としている。また、薪炭の除染によって発生する残滓の処理方法や作業者の被曝回避については相変わらず明記されていない。これらは結果として政府の広く薄く拡散させようとする『方針』に沿ったものであり、利用者自身が被害者また加害者とならないように自己管理するしかない。まさに「無政府状態」といえよう。なお、相変わらず「調理加熱用」となっていることに注意
11月2日 調理加熱用の薪及び木炭の当面の指標値の設定についてhttp://www.rinya.maff.go.jp/j/press/tokuyou/111102.html
木材産業課長通知の内容
http://www.rinya.maff.go.jp/j/press/tokuyou/pdf/111102-01.pdf
11年11月或日 薪に関連する林野庁発表および通達など
林野庁HPにリンク
注意すること ここで林野庁のあげる「薪炭」とは「調理加熱用」つまりピザや焼き鳥などの調理で直接加熱する薪炭であり、ストーブ用などをふくんでいる訳ではない。
また、吹きとばしたり樹皮などを削って放射線量を下げるように指示されているが、その飛ばされた粉や削りカスの処理方法 例えば燃やしてはいけないとか安全に保管貯蔵する方法などについては触れていないこと。さらにそうした作業に従事する者の安全基準もあいまいであること。
東日本大震災について〜「よくあるご質問と回答」(原木しいたけ)の更新について
「きのこ原木需給情報全国連絡会議」の開催及び一般傍聴について
「よくあるご質問と回答」(原木しいたけ)の更新について
「計画的避難区域」及び「緊急時避難準備区域」等の森林内等における作業の実施について(Q&A)木材製品の取扱いに係るご質問と回答について
木材製品の取扱いに係る留意事項等(Q&A)について
きのこ原木及び菌床用培地の当面の指標値の設定について
きのこ原木及び菌床用培地の当面の指標値設定に関するQ&Aについて
きのこ原木及び菌床用培地中の放射性セシウム測定のための検査方法について
きのこ生産資材用のおが粉等並びに調理加熱用の薪及び木炭の安全確保の取組について
森林内の放射性物質の分布状況及び分析結果について(中間とりまとめ)
東日本大震災について〜「よくあるご質問と回答」(原木しいたけ)の更新について
東日本大震災について〜「計画的避難区域」及び「緊急時避難準備区域」等の森林内等における作業に係るご質問と回答について〜
東日本大震災について〜きのこ原木及び菌床用培地の当面の指標値設定に関するご質問と回答について〜
東日本大震災について〜福島県産の原木しいたけ(露地)のご質問と回答の更新について〜
東日本大震災について〜福島県産の原木しいたけ(露地)のご質問と回答の更新について〜
東日本大震災について〜福島県産原木しいたけ(露地)のご質問と回答について〜
東日本大震災について〜木材製品の取扱いに係るご質問と回答について〜
福島県産の原木しいたけ(露地)のご質問と回答の更新について
福島県産原木しいたけ(露地)のご質問と回答について
お薦め 田坂広志 管内閣官房参与の日本記者クラブでの講演 「福島原発事故が開けた『パンドラの箱』 − 野田政権が答えるべき『国民の7つの疑問』」の動画が公開されました。時間が無い方は、講演PPTを。
11年10月或5日 「かわいそうな象の話」を読んだことがあるか?
「かわいそうな象の話」という こどもの本があった。いま大人になっているたくさんの人たちが読んだことがあるのではないだろうか。あるいは自分の子供に読んであげたことがあると思う。太平洋戦争中に軍の命令で上野動物園のゾウを餓死させたおはなしである。
いま 福島ではたくさんの牛や豚、鶏などの家畜や犬や猫たちが餌をあたえられずに餓死させられようとしている。国はそうした動物たちを「安楽死」という名目で注射などでつぎつぎと殺している。その実態は「安楽死」どころか2.3段階で注射などを打つて殺している。殺した牛たちには倒れたまま石灰をかけてその場に放置しカラスなどが食べ腐って骨になる。餓死して倒れた牛たちの周りにまだ生きている牛たちがと心配そうに取り囲んでみている映像を見た人もいるだろう。
そうしたまだ生きている動物たちに自分たちの内部被ばくをかえりみず、餌を運んで「希望の牧場」http://fukushima-farmsanctuary.blogzine.jp/と名付けて なんとか生かそうと努力している人たちがいる。その多くは牧場や畜産で働いている人たちだ。畜産で働く人たちにとって 放射能に汚染された家畜は売ることができない経済でいえば、まったく無駄であるどころかそれに餌を与え続けることは損失を重ねるばかりである。でも、彼らは自分が内部被曝をしてもそれを続けながら福島の動物たちの命をつなごうとしている。
「希望の牧場」を続けようとしているひとのなかに私の後輩もいる。きっと彼も子供のころ「かわいそうな象のはなし」を読んだのだろう。
11年10月或4日 薪などについて 追加 林野庁hp
http://www.rinya.maff.go.jp/j/kouhou/bunyabetsu/index.html
政府(林野庁)は問題になった腐葉土と堆肥に関連して、畜産の敷料に使われるバーク(樹皮)、おが粉について、また、屋外乾燥していた稲わらに関連して屋外乾燥をしていた薪・木炭について福島県や16都県に調査を依頼し、屋外乾燥の調理用薪・炭について出荷の自粛を要請していた。まず、注意が必要なのは薪・木炭については「調理用」ということである。つまりピザ窯や焼き鳥など用の物ということである。暖房用は対象外である。
また、木材製品については「スクリーングの必要なし」とし、原木等-薪が含まれる可能性-の出荷については放射線量100000cpm以下の基準として必要に応じて除染するようにとしているがこれは年間20msvをベースにした数値である。その除染方法についてはエァーによる吹き飛ばし、樹皮など表面の削りとりとしているが、その取り除いた放射性物質を含む部分の処理については触れていない。また、作業者の防護も関連事項で防塵マスクが望ましいとしているだけである。これでは作業者の被曝や取り除いた樹皮などが燃やされれば再び飛散して被曝を広げることになる。
こうした内容や他の被曝の放置、処理方法を定めない「除染」から判るように、政府の基本的な方針は、放射性物質を人為的行為によって全国・世界に『薄く広く拡げ』てマヒさせることを目しているものといえよう。
11年10月或3日 樹皮を剥いた薪が売られている。
木材は建材や製紙原料にもひろく使われる。
先日福島などの薪に注意ましょう!と書いたところ早くも薪に変化がでてきた。近くのホームセンターに行ったらナラ薪を売っていた。それがなんと見事に樹皮が剥いてある。1束だけでなく山積みで売っているすべての薪が樹皮を剥かれ真新しい木肌になっている。ラベルをみると「販売者 群馬県○○市○産業」となっている。群馬県の山沿いも高い放射線量がでているホットスポットになっている。放射能がでたので樹皮を剥いだのか、それとも消費者へのアピールのために剥いたのかは判らないが、樹皮を剥いて薪にするのは大変な手間がかかるが、それをやっている。
まず前提としてこと薪についての放射線基準値など無い。現在のところ出荷の規制や制限も公に測定すらされていないだろう。薪も木材も対象から外れているか忘れられている。
目下のところ、樹木の汚染や汚染された樹木の流通や使い道、除染、保管については、関心がもたれていないが社会的には大きな影響がでてくる分野である。
確かに、落葉樹は3月にはまだ芽葉がなく飛散した放射性物質が付着したのは幹・枝である。その樹皮をむけば中の木部の放射線量は下がる。でもそれで安心できるのかは判らない。
また、注意するべきは、薪を作る時割って束にした薪束を野外に積んで乾燥させている。そこに放射性物質が降り注げは当然付着する。つまり3月前に作られた薪にも付着している可能性が高い。
もうひとつ、薪といえばふつうの人は近所の山から切り出して作られていると思うだろう。しかし、大量に販売する業者やキノコ栽培用の樹木は、県をいくつかまたぐ位の広範囲の地域から原木を集めている。そうした業者の多くは、キノコ栽培に適した太さの部分をとった残りを薪やチップにしている。
商品となった薪も、東京には福島のものが多く、山林にかこまれた長野でも群馬や他県のものが売られているように広範囲に流通している。
それだけでなく、製紙工場でも針葉樹だけでなく広葉樹の原木や樹皮・チップを原料として紙をつくっている。製紙では輸入したチップや針葉樹だけでなく広葉樹を混ぜる必要があるという。もし、製紙原料に放射性物質が含まれていれば、身近なだけでなく世界規模の流通にのってひろがることになる。
建材も同じである。パ−チクルボードやさまざまな建材はチップを原料として作られ、住宅や建物として長期間くらしのなかで使われることになる。
気になるのは、樹皮をはがれた薪の出自だが、それは業者のみが知る。それより気になるのは、剥いだ樹皮をどう処分したのかどう保管しているのかである。放射性物質で汚染されているのならば法に従って厳重に管理されなければならない。もしそれがいつのまにかチップや腐葉土の原料になっていたり、焼却されていたらさらに汚染を拡散させることになる。捨てられたり山積みにされていれば水や土壌を汚染することになる。
薪に現れた山林の汚染は、今後大きな問題になるし、問題にならなければならない。
11年10月或2日 原発事故以後の恐怖 六識を超える恐怖
政府は「ただちには健康に影響が無い」と言い続け、国民は正確な納得のいく説明を得られないまま不安なくらしを強いられている。
あいつぐホットスポットの発現、食品だけでなく子供たちの体内からも放射性物質が確認されている。そしてこれからいつまでも 自分が、子供たちにガンがでてくるのか、異常が生じるのかという不安とともにいきていかなければならなくなった。
心のなかに恐怖
原発事故以来、私たちはつねに心のどこかに「恐怖」を抱いて生きることになった。
この恐怖はどこからきているのだろうか。放射能の心配、これにはこれまで私たちが経験をしたことがない生命の危機感がある。プルトニュウム239の半減期は2.4万年、セシウム137が30年、フッソ18が100日と長期間にわたって放射線をだしつづけ遺伝子の破壊など世代を越えた長い時間人体や生物に影響をあたえるという。
六識の恐怖
仏教で人間の認識の根幹をあらわす「六根」−視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚、意識という六っの識の言葉があるが、この六つの認識を超えてしまったところに原発事故以後の「恐怖」がある。
見えることもなく、音もなく、臭いもなく、味もなく、さわった感触もないままに人間と生物を傷つけ、命を奪うものへの恐怖。人間は、これまでこの五感で認識できないものへの恐怖を「意識」で調整をすることで危険からのがれるようにしてきた。
たとえば、子供のころ怖かったお化けや幽霊について、物性を五感と連動した物理的や心理・精神的な知識によって「いないこと」を理解して怖さがなくなっていく。逆に五感では認識できなくても過去の経験や推理によって「恐ろしいこと」を認識する。
六っめの識の「意識」は、過去・現在・未来の時間を越えて経験や推理により分別をする。
意識も無力に
ところが、今回の原発事故でわたしたちが知ってしまったことは、五識では認識できない放射能が「意識」でも認識することができない、認識をすることはできてもどうしようもないということを「認識させられた」ことであった。
原発事故以来、連日たくさんの「専門家」が私たちに説明をした。しかし、それは○○シーベルト、原子炉の仕組みなどなど大量の情報でしかなかった。知識として説明されたのは瓦解した原子炉から大量飛散した放射性物質は数万年の単位で人間や環境を壊していくこと、それがどのくらいでどう起きてくるかはわかっていないこと、その放射線を人間の力ではなくすことができないこと、そしてすでに福島をはじめおおくのところが汚染され人間の行為でさらに広がっていくということだった。
結局私たちが判ったことは、私たちはこのどうしようもない放射性物質のなかでこの先何十年、何万年も生きていかなければならないことになったということだけだった。
人間の時間を超えてしまった問題をかかえこんだ時、意識もまた無力である。
六識を超えた恐怖
「風評被害」という人たちもいるが、人々は実際に「恐怖」のなかにいるのである。
原発事故で私たちは人間がこれまでに経験をしたことのない世界にはいりこんでしまった。
これまで人間は六識で危険を認識し恐怖も感じてきた。ところがこれからは六識では認識することができない恐怖のなかでくらしていかなければならなくなったことそれが恐怖なのである。
‘11年10月或日 福島などの薪 注意しましょう!
実は別の事を書く準備をしていた。しかし、政府が福島の山林の除染準備をはじめているのが判ったので ストーブネタとして書かなければならなくなった。
原発の水素爆発 核物質の飛散以来7ヶ月も経ってやっと政府が除染に取り組む ジュンビ を始めだした。殺しても許されない無能で人殺しの奴らであることはともかくとして、薪ストーブを使う人にも影響がでかねないので注意が必要となった。
具体的な動きについては、政府の発表を読んでください。
林野庁http://www.rinya.maff.go.jp/j/press/hozen/110930.htmから詳細PDF
簡単にいえば、除染方法の検討のため福島原発近くの森林の汚染状況を調査した結果相当汚染されていた。3月に葉があった常緑針葉樹林は枝葉に、葉が無かった落葉樹林は、地上にあった落ち葉に核物質が付着していた。対策として常緑針葉樹は枯れない程度に枝葉を伐採し、落葉樹林は落ち葉を集めて処理をする ということになる。ここて汚染されている枝葉や落ち葉をどのように集めて除染するまで貯蔵し減量するかが課題となる。
東京など首都圏ではこれまで福島県からの薪が相当量流通していた。しかし、これからは福島近辺からの薪は汚染されている事は言うまでもない。落葉樹であってもその幹、太枝の樹皮に放射性物質は付着している。これを洗い流すことは困難でありまた作業者は危険となる。
どのくらいの汚染-放射性物質が人体に影響を及ぼすかは医師・専門家を含めて未知の部分である。
現在のところ国際的に一致しているのは、衣食住のすべてから受ける放射線量の合計が年間1ミリシーベルト以下という基準だけである。注意するのは、衣食住からのすべての合計がということである。
そこで20ミリシーベルト以下なら「ただちには健康には影響が無い」というような政府の言うことを信用するのかしないのかを含めて、残念ながら国民一人ひとりが判断するしかないという酷い状況に私たちは放置されている。
当然私にも、その1ミリシーベルトの内のどれだけなら薪から受けても大丈夫なのかは判らない。したがって「できるだけ、薪からも放射線をうけるのを減らすしかない」としかいえない。いえることは、もし薪に放射性物質が付いていれば、煙とともに近隣にまき散らすだろうし、灰には重量比で凝縮されて含まれるということだけだ。
すでに5月段階から落ち葉を集めた腐葉土の汚染が問題になった。しかもそれは、遠く離れた地域まで流通していた事実がある。また、その腐葉土に使われた落ち葉の産地がどこであるかも曖昧であった。腐葉土にしたのが別の地域ならば落ち葉が「福島産」であっても別の地域で作られたことになる酷い状況がある。
したがって放射性物質を拡散させないためには、福島などの人たちには大変気の毒ではあるが、ぜひ 薪を出荷しないように、そして福島などの汚染された薪を買わないようにとお願いをするしかない。
この責任は、第一義的に東京電力にあり、被害を放置し拡散した政府にある。
‘11年9月或5日 やっていないことの証明 小澤秘書裁判
私はよくこんな話をする。もしあなたが浮気をしていると疑われたら「無実」を証明するのは大変ですよ。なぜなら、「やったこと」を証明することは簡単だが、「やっていないこと」を証明することは難しい。疑っている例えば奥さんは「やっていないならその証拠を」と言うでしょう。しかし「やったこと」には当然証拠があるが、ところが、「やっていないこと」には「ない」のだから証拠のだしようがない。けれど相手からは「証拠がだせないなら」とさらに疑われる。
間接証拠からは、「無罪」から出発して推論することも「有罪」から推論することもできる。特に有罪から推論する場合は、その「仮説」を立証するのに必要な部分を集めればいい。ところが無罪を立証するには「無い」ことばかり集めることになる。つまり、「証」が無い事を立「証」するというおかしなことをしなければならない。したがって有罪の仮説の立証を打ち消す方法となる。これはなかなか大変なだけでなく、たとえ「有罪の立証」をすべて打ち消すことに成功しても、相手が「疑惑」を捨てない限り「疑い」は残る。
だから直接証拠に基づく有罪の立証が必要なのだ。
夫婦間の浮気疑惑ならそれでもいいが、刑事事件ではそれでは困る。だから「推定無罪の原則」と「証拠主義」なのである。有罪=罪が有ることが法と証拠に基づいて立証され判決されない限り無罪=罪は無いのである。注意したいのは、「有罪」guiltyと「有罪ではない」not guiltyであり「有罪」と「無罪」ではない。
私は小澤一郎は大嫌いである。彼の政治資金も怪しいし、とくに小澤的な政治手法がこの国の政治に存在することは許せないと思っている。
しかし、今回の裁判と判決は異常である。
直接問われている罪は「虚偽記載」であり「政治資金事件」ではない。しかし、判決では訴因ではない「政治資金」の認証に力点がおかれている。「裏の政治資金」があったからそれを隠すために虚偽の記載が行われたのだと。しかし「虚偽記載」は形式犯でありこれまでの同様の裁判でもそれだけであった。「裏の政治資金」の罪そのものはこの裁判では立件も起訴もされていない。
法治国家では、政治家も一般の国民も国民は法の基にすべて平等に扱われなければならない。それがどうみてもこの裁判は「小澤潰し」を目的に立件され、裁判され、判決されたとしか思えない。政府、検察、マスコミそして司法が一体となって 目障りな政治家を潰そうとする、これは大変に危険である。
裁判所は、自ら「任意性に疑いがある」として直接証拠である当事者の検察調書をことごとく採用しなかった。つまり「証拠」を否定した。その一方、間接的な証言と「小澤の政治資金は怪しい」という裁判官の心証と推論で「有罪」を導き出している。これでは、確たる証拠はないが、あいつは怪しいという雰囲気が作られてしまえば、それだけで誰でも犯罪者にされてしまう。
小澤一郎は、政治的には「親米」ではあるが『非米従属』のスタンスである。一方、政治家、政府官僚、財界、マスコミをはじめこの国の中枢は「対米従属」である。それは「日本はアメリカの属国」といわれるまでに根深く定着している。それを小澤が壊すのではないかという恐怖から小澤潰しがおこなわれているという説もある。
その真偽はわからないが、しかし、不確かな証拠と裁判官の心証、推論で他の裁判に影響を与えることを念頭に置いて判決を下し、司法を歪めるならば、三権分立という国の根幹を自ら壊すことになる。
‘11年9月或4日 生き血を吸い、屍もむさぼるのか
8月にストーブを製作して取り付けた工事の元請けが自己破産した。
この仕事はもともと注文主と設計事務所から依頼さていた。それを手続き上の便宜から建設工事全体の中に含めて注文主と設計事務所が決めた地場ゼネコンから請け負い、支払われる形になっていた。 経過や契約上の説明は省くが、頼まれて指定された道を歩いていたら土砂崩れに巻き込まれたようなものだ。
ともかく、私はその○○建設からストーブ工事を請け負ったことになり、工事を終えて工事代金を請求した20数日後に○○建設が「自己破産」の申し立てをして工事代金は支払われなくなった。
弁護士による、「私的債権者集会」が開かれたが、たいした配分はおそらく期待できないだろう。
昔は、債権者の代理でそうした場に立ち合ったり取り立てをしたが、久しぶりでしかも自分のことなので妙な「新鮮」があった。(笑)
それはともかく、あらためて工事代金などの債権と銀行の債権を比較して考える機会である。
いまの社会では、圧倒的に銀行が有利に法律・制度が出来上がっている。銀行は融資にあたって担保をおさえている。
しかし、そもそもでいえば、銀行はお金を貸してそのお金をもとにすでに利息という利益をあげている。そして借主が破産した場合債権として請求するのはその元金である。その元金についても相当する担保をもっている。 ありていにいえば、寄生して借主の生き血を吸ったあげく、倒れればその屍も担保として食うということになる。
一方、工事代金などの一般債権者は、なんの担保もなく賃金や材料などの費用を元請けに代わって立て替え払いしているのだ。そこにいくらかの利益を含んでいたとしてもそれは代金の全額を受け取ってはじめて利益になる。代金を回収できないことはそっくりそれをかぶるということだ。
日頃 とくに信金、地銀などは「地域社会に貢献する」とか「中小企業を応援する」などと言っているが、こうした際に何をするかが問われる。「自己破産」によって大きな損失をうける多くの業者を支援することこそ「地域に貢献」「地域経済を支える」ことではないか。
「元金」の回収はいいだろう、しかし、せめて「自己破産」した企業から吸い取ってきた利息(利益分)だけでも債権放棄し、他の債権者の回収分配にまわすべきだろう。それではじめて他の債権者たちと同じ「実損」になるのだから。
加えて重要な点は、労働債権(従業員の未払い賃金など)は優先債権である。建設工事において、請負い契約の形ではあるが「工事代金」は材料費などを除いた大半は労賃であり、実質的に「労働債権」である。実際に工事に携わった労働者に賃金支払いを確保するためにも銀行の社会的責任は大きい。
゛11年9月或3日 広告料の上乗せ
ある雑誌から「広告申し込み書」が届いた。チ○チ○××という自然派を売りにして伸びてきた住宅専門誌だ。
毎年この冬に向けてエコロジカルな暖房としてストーブ・暖炉の特集をしている。今年は震災や原発事故をうけて自然エネルギーの暖房としていつにもまして薪ストーブなどを企画するとのこと。
それはそれで良いのだが、広告料だ。1/6ページ、つまり1ページを6つに区分けしたひとつ分が15万円だという。1ページ分なら90万円。変型A4の雑誌だから1/6ならおよそ9cm×10cm位だからストーブ1機種
載せるのにいっぱいだろう。 これはなかなか良いお値段である。2区画なら30万円、4区画なら60万円になる。
雑誌社だって当然広告を出すストーブ業者が一台売れるとどれだけ儲かり、広告料がペイするかくらいは計算済みで募集しているのだろう。そして広告料を払って出す人がいる。
となると、世の中 なかなかたいしたショーバイをしている人たちがいることになる。
ところで、私は、基本的に有料広告、有料記事には御断りをしている。この雑誌も以前は、カタログ的にストーブを紹介する記事と有料広告を分けてだしていたと思う。そしてカタログは記事扱いだからこちらが雑誌のためにデーターを提供する無料であった。そうした時には私もデーターを提供して掲載されていたと記憶している。
そもそも、私のように自分で考え造って設置している者は、どこかで安く仕入れてうまく売るというような器用なことができない。だから費用をかけてたくさん売ろうということもできないし、その「費用」もなければ「費用」を取り戻して儲かることなぞできない。もし「費用」をかければその分、ストーブに上乗せしないとならない。上乗せするくらいなら、余分な費用をかけないで安くした方がいい。
ともあれ、宣伝することは大切だが、そのための費用を転嫁する、こうした世の中は好きではない。
'11年9月或日 3.11と9.11
実は近頃はツィターをやっていた。あわただしく動くことに考えをまとめる気持ちになかなかなれず、とりあえずコメントとして感じたことをメモにするには便利だったからだ。しかし140字で書いていると考えもまた断片的になってしまうことを感じだした。
ということで サボっていた書き込みを 継ぎ足し継ぎ足し書くことにした。だから適当に書き直される。
このところというか具体的には 3.11以後なにか物憂いあるいは虚脱感や閉塞感のようなものがある。ずっと走っていたのを急に止められ、止まってみて一体自分は何で走っていたのだろうとあらためて思い返している感覚だ。
東北震災でたくさんの人が亡くなった。おおくの人がそれまで築いてきたすべての物を失った。私の近い知り合いのなかには被害をうけた人はいなかった。しかし、たとえ知らない人たちであっても信じられないほどたくさんの人の死の衝撃は大きい。多くの日本人に他人の死や不幸はまだ「他人事」ではない感覚をもっているのだ。
人類は科学は自然を克服できると信じて作り上げてきたたくさんの物が、自然の力の前に脆くも崩れ去る光景をリアルタイムで見た時、これまでの自信や期待がはかないものであったことを知らされた。
こうしたことは私だけでなく日本人の多くの人たちも感じているのではないだろうか。
もうひとつは、原発事故−原発の瓦解であった。
つまり、私たちはこの200年の
「がんばろう日本!」 「復興には経済活性」 の虚しさ
そんな頃、さかんに「がんばろう日本」「経済活性が東北を救う」の大キャンペーンが始まった。消費拡大=経済活性が東北の被災地を救うのだからもっと消費しろ、旅行しろ、お金を使えというのだ。 たまたま私も付き合いの観光旅行をした。しかし、どうしても浮かれた気分、晴れ晴れとした気持ちにはなれなかった。同行した人たちも同じである。海岸近くのホテルに泊れば「ここに津波が来たら・・・」とか「静岡でも放射能が・・・」が話題になり、お土産も買う気にならない。
つまりは、あまりに多くの人々の死が、多くの不幸が、そして遅々としてとして進められない被災者たちの救援、空しい言葉だけを繰り返す政治に、私たちの心は重く沈んでいる。
そんなところに、天皇が亡くなった時にはあれほど強制的に「自粛」を押しつけていた人たちから今度は「自粛するな!」と言われても、心の重たさはなくならない。「自粛」しているのではなく、心が喪に服しているのだ。
経済つまりは自分の商売を第一にする人たちは、震災や原発で自分の儲けが減ることが一番の関心事であり、他人にもそれを強要したがるが、人間にはそれよりも大切なものがあり、今はみながその大切なものを見つめ直しているのだ。
震災で露出したもの 崩壊した政治、学者、マスコミの実態
この震災でこれまで私たちが信頼をし、これまで社会をリードしてきたエリートたちの実態が白日のもとに晒されることになった。
政治については長き自民党政権が寿命が尽き、国民の選手が代わればとの期待も空しく民主党政権は、政府どころか自党の運営すらできないありさまである。
かつては「政治家はダメだが、官僚が国を支えている」といわれた官僚組織もその実態は個々役人の私益を確保するために国の財政にたかる『小役人』のあつまりであることが、天下りや癒着という事実をもって次々と明らかになり地に堕ちたていた。
今回の震災救援にあたっても、なまじ国(政府)があるがために、国が予算を握っているがために、救援を困難にしていることを時々刻々と国民の前に示した。北朝鮮の拉致被害者と同様に、非常時にこの国は「国民を救う・守ろうとしない」ことを実感せざるをえない。(念のために断っておくが、消防や自衛隊など多くの末端公務員が命をかけ、献身的に働いたおかげで多くの命や心が救われた。)
言いかたは悪いがもともとの「小役人」はしっかりとその職務を果たしているにもかかわらず、国家を担っているはずの「大役人」(官僚と官僚機構)は骨の髄まで腐りはて、アテにならないどころか国民の大障害になっている。
(書きかけ)
`11年9月或2日 日本という国への 信頼は失墜した
国が信頼を失うということ
普段私たちが国内で「国」という時、それは「政府」をさしていることが多い。しかし、国際社会からみた時それは「政府」だけでなく国民もその国の制度もその国が作る製品やその国の文化を含めたその国の社会や風土までのすべてを含めたものとなる。その国の「お国柄」イメージといってもいい。逆に、まず頭に浮かぶその「国」のイメージからその国の文化や国民性や製品を判断していく。
ところが原発事故以来、この事故に対する日本政府の処置や国民の対応に対して世界からは不信と不安が湧きおこっている。
どうして国民を避難させないのか、海に放射性物質を流していいのか、輸入品には厳しく放射能検査をしているのに輸出する時には甘い基準にして十分な検査をしないのか?、具体的な数字も示さず「安全だ」というのか・・・・・・輸出よりもさらに甘い基準で汚染されている食品を国民に食べさせているのか・・なぜこうしたことに国民は黙っているのか。・・・などである。
政府だけでなくそれに黙っている国民と国民性への不安でありそれは日本という「国」そのものへの不信である。それは当然のこととしてその国民が作り、輸出する物にも不安になる。
つまり、「日本」という国のすべてについての信頼が失墜している。
ソ連という国は崩壊した
チェルノブイリの後ソ連は崩壊した。事故発生の時、ソ連は人権人道を踏みにじっている国にしては珍しいほど国民を守る処置を素早くおこなった。一説には危機管理委員会に民間代表が加わっていたためにその人の活躍で、いち早く事態を公表し、軍を動員し住民を強制的にバスに乗せて避難させるなどの処置がとられたという。同様に軍と消防などに危険性を承知させて緊急処置を行わせたという。その結果従事した人たちに少なからぬ被爆の犠牲がでているが、最後の事態は食い止められた。
しかし、それでもいまなお深刻な被ばくが残り、ソ連政府は国際的に非難された。
チェルノブイリの事故とその対応は、ソ連という国の体制だけでなく国としての信頼を大きく傷つけ、それはソ連の崩壊につながっていった。
政府が国の信用を傷つけている
今回の日本政府の対応は日が経つにつれて事実があきらかになりじめている。事故を起こしたことだけでも日本という国に対する国際社会の信用が失墜したことは事実である。それに一層の拍車をかけているのは、いまなお毎日くりひろげられていくお粗末というより、世界からみれば唖然とするしかない政府のデタラメな対応である。
「安全だ」を言い続けた挙句に事故を起こした上に、いまだ日々「安全だ」といって数値を公表しないままに国民に被爆地の食品を食べさせ、子供も避難させない。正確な被爆線量を数値で全面公開しないまま被爆地の物品を動かし、ガレキを国中に運び拡散させる。
こうしたことに対する国民の不安や不満を「風評被害」と決めつけて抑え込む。
世界からは、これが文明国の政府が行っていることだと思われない。
漫然とした国民の態度は国際的には異常
もうひとつはこうした政府を漫然と許している国民も国際的には信用ならない国民なのだ。
政府がダメなら国民がそれを糺さなければならない。それでもダメなら国民が政府を取り換えるのが民主主義国の常識である。選挙制度があるとか議会制であるとかが民主主義国ではない。それを国民が行使するのが民主主義国なのである。政党間、政党内での『政局』とよばれる動きはあっても、国民自身が積極的に政府を変える努力をしているとは国際的にみられていない。
国民の身が危なくなっているのに、国の信用が失墜していくのに国民がそれを漫然としてみていることは、他国民には理解ができない態度である。
太平洋戦争に進んで行った日本との共通点
飛躍だと思う人がいるだろう。しかし、今の日本人のこうした態度は、あきらかに無謀な戦争に政府が突き進んでいくのを、結果として漫然と見逃していった私たちの祖父、父たちと同じではないか。
「戦争になってしまった」いうが、結果には経過があり、その経過の時に国民はいったい何をしていたのか何をしたかである。
戦前と現在とは大きな違いがある。それは現在は民主主義国としての制度があり、それを使うことで結果を変えることができるようになっていることである。
しかし、そうした制度があっても国民が政府をコントロールすることができない、しようとする努力をしなければ 無いのと同じである。
例えばアジアの国々からみれば、日本の政府が軍国主義や侵略に走っても、戦前と同じように日本人はそれを止められず、唯々諾々と従ってしまうのだろうと思うのは当然である。
国際社会は 日本国民をみている
国際社会はすでに日本国の政府を信用していない。だからその政府が「安全です」と言えば言うほど日本で生産する食品も工業製品を信用しないようになっている。
国際社会はいま、その政府に対して日本の国民がどのようなアクションを起こすのかをみている。
もうひとつ、国際社会は、日本の国民自身が今日の事態にどうするのかをみている。政府が機能しない時、国民は政府に変わって一人ひとりの国民が直接自らの手で国と自らの命とそして国際社会への責任を負う行動をしなければならない。
「有史以来」といってもよいほどこれまですべてを「お国」に任せ、ゆだねてきた日本国民には思いもつかないことかもしれないが、歴史上多くの国では、政府、支配者が破たんした時には国民が直接国を守り自らの命を守ってきた。
国民は何をすべきか
例えば具体的には、電力会社に原発を止めさせる、被爆の状況を調べ汚染された食品、製品を生産しない、輸出しない、させないことを国民自身の手で行うことだろう。
すでに政府も政治家もマスコミも東電や電力各社に「原発をやめろ」ということすら言えないことが明らかになってきた。それならば国民が直接電力会社に圧力をかけて止めさせる。汚染された土地を除染する。土地や原材料、生産施設の除染ができ安全が確認されるまでは農生産物も工業生産物もそこでは作らない。移動させない、出荷しない、輸出しない国民合意をはかるために行動をはじめることだ。
政府をコントロールできない国民は、自らの力で国を救おうとしない国民は、世界から信頼をされない。
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- '11年5月或日 震災と原発
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- 今回の震災と原発のなかでいろいろなことが明るみにでてきた。高度経済成長、大衆資本主義、大量消費社会、グローバル化・・・いろいろなことばで言い表され、飾られ、くらしのすみずみ入り込み、心の中にまで浸透している現在の私たちの生活や社会のはらわたの部分を暴きだしたように感じる。今回の震災と原発のなかでいろいろなことが明るみにでてきた。高度経済成長、大衆資本主義、大量消費社会、グローバル化・・・いろいろなことばで言い表され、飾られ、くらしのすみずみ入り込み、心の中にまで浸透している現在の私たちの生活や社会のはらわたの部分を暴きだしたように感じる。
- 地震の時、その大きな揺れが治まったテレビ画面に映し出されたのは、大洪水になって押し寄せる津波に呑まれる人の姿と家屋や船、工場、車など人が築き上げてきた物がいとも簡単に浮き上がりあるいは沈みくだけていく姿。やがてそれらを奪い去るように引き波が海にもっていってしまった跡には大きな手でテーブルの上を払ったように何も残っていない。 夕方になると 廃墟のなかで赤々と燃えあがるプラントやタンクが写し出されるようになり、東京では「帰宅難民」とよばれる街にあふれかえったるサラリーマンたちの姿が写されていた。画面のその姿をみながら「でも、せいぜい今夜一晩家に帰れないだけだろう。東北ではそんなどころじゃないのに
! 」「テレビ局の連中の価値観や問題意識ではそんなことなのだろうな」とふと思った。実際、あの「帰宅難民」の人たちも今になれば「あの晩は困ったよ」という程度の『被害』だろう。
- 原発事故が明らかになるにつれて、ニュースは津波の状況から衝撃的な水素爆発を経てヨウ素、セシュウムなど放射能汚染に移っていく。その内容はけっきょくのところ「保安院」が発表する数値や原発の設備のあれこれをなぞって「解説」しているだけだ。 その強調された「水道水」や「ホウレンソウ」など部分に世の中はザワザワと揺れ動かされていく。
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- とりあえず 私たちが「情報源」として与えられているテレビなどマスコミを考えてみる
- 今回ほどマスコミがいいかげんなものであることを示しことはないだろう。まず震災と津波では、各メディアは競ってより衝撃的な映像を探し出しては繰り返し流している。でもそこに本当の姿が写っていただろうか?
もちろん映像だから「事実」ではある。しかし2万人を超えるという死亡者とその家族たちが伝えられているだろうか?
この「2万」という数字は、生まれ、暮らしていた生身の1人ひとりの人間のことでありその死が2万もあったことではないのか。実際マスコミからは一人の「死の姿」すら写しだされないが、どんなに無念でまたその人生の終わりの姿としてはあまりに無残な形であったであろう。別に死者の写真を写し出せというのではないが、一人ひとりの死として思い浮かべなければ本当の悲しみにも被災にも近寄ることができない。日本のマスコミが津波のように垂れ流す映像より 在米のジャーナリストがアップしている数枚の写真のほうが被災地の悲しみを伝えてくれる。http://blogs.yahoo.co.jp/dullesist/19611700.html http://blogs.yahoo.co.jp/dullesist/19821964.html
- 臭いがない報道
- マスコミの垂れ流す報道という情報がいかに『事実』を流していないか、それを視ている私たちが同じ人間として身体でその情報を『事実』として受け入れることができないことを示すひとつが"臭い"である。どんなに悲劇や暖かいエピーソードとして制作した画面でも"臭い"がないのである。実際の被災地にはヘドロから魚や家畜などの腐敗した臭い、油や焼けた物の臭いそして遺体のそれまでありとあらゆるものの臭いが漂っている。震災が起きる前までのその地の風景と同じようにそれまでの生活の匂いとはまったく違った臭いに包まれている。マスコミの垂れ流す情報には、そうした本当の事実がないのである。彼らはいつも流しているドラマやワイドショーと同じように放送作家やデレクター、コメンティターによって演出がされ誇張し切り捨てられた『情報』、これしかない、これしかできないのである。
- その典型として原発報道
- マスコミの原発報道は、政府と東電発表の悪しき解説に終始している。
- 少し注意して視てきた人には判るだろう。事故の当初NHKと民放のニュースとニュース ショーに登場して「安全です」と言っていたのは原子力委員会や原子力学会の委員などをしている学者たちであった。彼らは原発を承認し原発の安全に政府機関のメンバーとして直接関与している者たちだった。
- それが水素爆発以後一斉にテレビなどに出なくなり、代わってでるようになったのは「○○大学教授」などの肩書の「学者」たちである。それもご丁寧に「原子力に詳しい専門家」などという振れ込みであった。そして口々に「直ちには危険はない」「放射線は○○シーベルト以下だから問題はない」と言い続けた。
- そしていよいよ各地への放射性物質飛散が明らかになり、政府と東電が海に高濃度 低 濃度の汚染水を放出すると口をそろえてあいかわらず「心配はない」「やむをえない処置」と 連日のように擁護していたがみごとにテレビなどにでなくなった。
- 事故の状況が進行し放射能汚染の深刻さが明らかになるにつれて姿を消していった「学者」「専門家」たちの正体を彼らにギャラを出し「大丈夫」だと言わせていたマスコミは正確に紹介をしていなかった。この「原発に詳しい学者・専門家」たちの経歴はそのほとんどが「元東芝・日立・三菱の原発担当の社員」であった者たちである。つまり実は彼らはこの原発をつくることに直接携わり、また原発を「研究」のために使っている当事者なのである。
- そうした連中が憶目もなくでている 出していることこそ「ニュース」になるべきで、そうした マスコミに「公正さ」も「正確さ」など期待ができようはずもない。
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- `11年4月或日 くらしと国のありようを見直す
石原慎太郎が「天罰がくだった」と言ったようだが、「太陽の季節」だ「湘南だ」と浪費社会を煽ってきたアメリカ・コンプレックスの俄か右翼の慎太郎にいまさら利いた風な事を言われたくない。そんな浮ついたご都合とは別に 私たちのくらしと国のありようを考えるチャンスではある。
この震災+原発事故をうけてこれまで日本の土木工事を推進してきた土木学会・地盤工学学会・日本都市計画学会の各会長が「今回の震災は、古今未曾有であり、想定外といわれる。われわれが想定外という言葉を使うとき、専門家としての言い訳や弁解であってはならない。このような巨大地震に対しては、先人がなされたように、自然の脅威に畏れの念をもち、ハード(防災施設)のみならずソフトも組み合わせた対応という視点が重要であることを、あらためて確認すべきである。」という共同緊急声明を発表している。
これまでこの国で原子力開発を推進してきた原子力学会がまともに国民に対して自らのなしてきた結果について責任を明確にした見解を表明していないのに比べても真摯である。
それはともかくとして、いずれもう少しまとめるが電力・石油などエネルギーを浪費し、物質欲にまみれたくらしぶりを見直す良い機会だと思う。
- ゛10年10月或日 「覚悟」
- 歳のせいか最近は気が短くなってきたようだ。もっとももともと我慢強い性格ではない。死んだ親からは「長続きしない、飽きっぽい」、通信簿には「やればできるのにやらない」とずっと書かれてきた。
- そんなこともあったためか、学生になって組織的な活動をはじめてからはできるだけ感情も殺して何事も『理性』で判断するように努めた。そのため一時は「機械人間」というニックネームもいただいたくらいだ。そうでなければ他者にケガやその将来にかかわるかもしれないことを公のためにヤレとは指示できない。もちろん指示をする以上を自らも同罪同負担である。
- しかし、人間怒るときには怒らないといけないと悟った。いろいろあって大いに怒ることに変えた。もっともその基準も違うようだ。公憤や義憤には強いが、私的利害の私憤についてはついぞ駄目であいからわず損ばかりしている。が、その方が気が楽である。
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- 感情や判断にはその個人の体験 肉体的経験が影響しているようだ。
- その最後ともいえる「死ぬ」「死ぬかもしれない」ということも体験によって違ってくると思っている。
- 自分の体験では、「死ぬ」というのはなかなか難しい。
- 山登りをしていたころ、中学生のころリーダとして30Kg位を背負い40度近い発熱をして登り切り下山して40時間位死んだように寝て親を心配させた。高校時代には加藤文太郎などを読んで「人間は死ぬ前には必ず一度目が覚める。その時そのまま眠るか動くかだ」と冬山で衰弱したまま雪の中で眠り実際に目覚めて動いて大丈夫だった。その後も山岳部で70Kg位を背負って幾度も失神して殴られながら登って生きていた。やはり激しい山登りの後発熱で寝込み、一週間以上体温計が42度をふりきり、足をバケツにいれて冷やしながらアスピリンをかじってウツラウツラしていた。大学の診療所に行ったら「42度を越したら人間は死にます。そんなことはありえない」と言われて頭にきて体温を測って見せて「どうだ。これでもウソか!」と朦朧としながら粋がったりしてきた。学生運動では気が付いたら2日3日も食わず眠らずだったりしたこともあった。いわゆる「全共闘世代」で残念ながら「全共闘」側ではなかったが、『闘争』の場にも立ち合った。その後も組合の書記としてヤクザや暴力団ゴロツキと幾度も対峙して何回も「テメエ 殺してやる!」と言われたが「そんなことはどうでもいいから、払う金を払え!。」「殺せるものなら殺してみろ!」とやりやってきた。何の縁もない土地に移り住み、徒手空拳で今日まで生きてきた。
- そんな体験からみると現在の「死ぬ気」とか「覚悟」は理解できない。「死ぬ」のは大変なのだ。生半可な努力やがんばりでは死ねないし殺されない。
09年4月或日 ストーブの『原産地表示』
TVで食品の「名産」「地場産」など産地表示のことをやっていた。カナダ生まれの馬を熊本で育ててコロして肉にしたのを「熊本産」ではいけない。海外の海で獲れた貝を山梨で加工したのを「山梨名物」ではいけないなどと槍玉にあげていた。「原産地」は大切なのかも知れないが昔から山梨ではアワビは獲れないし大阪では昆布は獲れない。京都でもニシンは獲れていないし博多ではタラコは獲れていなかった。鮮魚のアジとアジの干物はある意味で別の食品である。
ヘソマガリだから自分のストーブの『原産地』表示をどうするか考えてみた。その論に沿えば新日鉄や中部製鋼の鋼板を使って日本産の私が長野県で作っているのだが「国産」と表示していいのだろうか?。そうそう一部の溶接材は韓国製だし工具には中国製もある。もっと根本的には新日鉄は国産の鉄鉱石を使って鋼板を作ったのだろうか?。おそらくオーストラリアの鉄鉱石にベトナムなどの石炭その他添加材も全て海外のものだろう。そうなると私のストーブを「国産」と表示するのにも疑義が生じてくる。笑
食品などの表示の基準も実際の表示もいいかげんなのは百も承知である。なのにそれを言葉遊びのようにあげつらって報道するしかたは嫌いである。本当に報道をするのなら 今回の『100年に一度の恐慌』で露呈した輸出依存、輸入依存の国のあり方からきちんととりあげるべきである。食料自給率が最低なのは、アメリカなどに自動車や家電製品を売るために国内の農業を叩き潰してきたのを容認してきたからで、いまさら「国内産の馬刺し」「国内産のお米」「国内産の野菜」を求めるならそうした政策を支持してきたことから語るべきであろう。
黒髪や白髪を『茶髪 金髪』に染めたオバサンの口から「国産じゃなきゃ」と言われたくない。雑種の日本人なのにきそって「血統書」付きの外来種の犬やネコを飼っている人に「やっぱり国産」と言われたくない。
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’08年10月或日 温暖化 二酸化炭素原因説も仮説のひとつにすぎない !
いま政府、マスコミそして国際機関をあげて地球温暖化の原因を二酸化炭素としてその『削減』の大キャンペーンどころか排出削減を義務付けあげくは「排出権」なるものの金銭による『取引』までおこなうこととしている。
だが、『温暖化』の原因を二酸化炭素ガスとするのも「仮説」のひとつに過ぎないのである。
温室効果ガスで言えば水蒸気のほうがはるかに高く強力な温室効果ガスである事実はほとんど知らされていない。ところが水蒸気は雲となれば逆に太陽光を反射して気温を下げる効果がありその定量的評価がないとしてIPCC−気候変動に関する政府間パネルではほとんど無視された結果二酸化炭素原因説に基づく過剰な温暖化予測がされている。
もともと「地球の気温に影響を与える原因」としては温室効果ガスのほかに太陽の活動、地球磁場の変化、火山噴火、ミランコビッチ・サイクル(地球公転軌道や自転軸の変化)が考えられている。そしていずれも現段階では「仮説」なのだ。 この仮説が本当であるとして大気中のCO2濃度が毎年1ppm増えたとしても気温ではわずかに0.004℃の上昇であり、一方雲量が1%増えれば約1℃下がるという試算もある。
しかも「地球温暖化」どころか逆に「地球寒冷化」の予測すらある。(東工大理学流動機構など)
これらについては『科学者の9割は「地球温暖化」CO2犯人説はウソだと知っている』(宝島社刊 丸山茂徳著)の表題のように私の知人の科学者たちも「単に仮説のひとつにすぎない」ことを認めている。wikipediaでみても「温暖化の原因」について怪しげなものを含めて諸説があげられている。
だが現在くりひろげられている「二酸化炭素削減」の流れに疑問を呈し竿を差すのは容易ではない。異を唱えるのはフツーで言えば時流やお上に逆らうことになりなにかとソンなのだろう。 さらに私の職業的な立場なら世間の小利口サンのように、「薪ストーブは化石燃料を使わないから地球温暖化防止に役立ちます」くらいのことを言ってショーバイにする方がオトクなのだろう。 しかし、疑問は疑問、おかしなことはおかしいと言うだけでなく行動を通して確かめる人生をおくってきたからしようがない。
この問題を考える時、オイルショック(1973・79年)に繰り広げられたキャンペーン 「省エネ」(省エネルギー)を思い出す。石油価格の高騰のなか国民は当然ながら「節約」をせまられ石油依存の生活を見直す好機でもあった。当然国民感覚の合言葉は「節約」だった。ところがその時 産業界と国は「省エネ」という言葉をつくりだしてみごとなすり替えをやってのけた。「節約」では物を買わなくなるが「省エネ」とすることで逆に物を買わせたのだ。
購買意欲と消費が縮小したのでは産業界は困る。そこで「省エネ」の国家的大キャンペーンをはって消費電力をわずかに減らしたテレビを「省エネ型テレビ」と名づけて買い換えさせた。「省エネ型」家電普及によって減った電力などの石油エネルギー量より、新しく「省エネ型」家電製品を作る石油エネルギー量のほうがはるかに多いことはあたりまえである。だが「省エネ」の言葉ひとつでファッション化させ国民を幻惑して大量消費社会の産業経済の『危機』を乗り切ったのである。
本質的な問題をすり替えて逆に『ビジネスチャンス』とする手法は今日の二酸化炭素削減キャンペーンにも共通する。もし本当に『地球に優しい』(これほどインチキな言葉はない)ことがしたいのならば、まず贅沢は論外、物を買わない、今持っている物を大切にして使い切るまで使う、部屋の灯りをちょっと暗くし温度を下げ(夏は少しがまんし)、食べる切れるだけしか作らず、ものめずらしさや見た目の良し悪しに騙されず、生活の全てのスピードを落とす これだけで2-3割のエネルギーや『二酸化炭素削減』が出来るはずである。もちろん「CO2を削減します」なんていう品物など絶対に買わない。 つまり「節約」をすればいいのである。
ついでに 国が本当にCO2削減をしまたその姿勢を示したいのなら、例えば、2011年だかからやろうとしている地上デジタル化を延期すればいいだろう。現在まったく支障なく国民の視ている数千万台のテレビを期限を切って買い替えを強要し=新しく製造し使えるテレビを廃棄処分するためにムダに排出するCO2はどれだけになるのだろうか。ぜひその数字を公表してもらいたいものだ。
’08年8月或3日 薪とCO2
「地球温暖化で北極海の氷が溶けて海水面が上昇する」という話はさすがに最近は少なくなった。アルキメデスもせっかく発見した「浮力の原理」を否定されたのではさぞがっかりしていただろう。
でも「環境問題」ではこの手の話はまだまだ多い。そのひとつが「森林が二酸化炭素を吸収する」という話である。林野庁も「ひとりの人間が呼吸で出す二酸化炭素は年間約320kgで、スギの木が23本で吸収する」と書いていた。確かに樹木は成長期には二酸化炭素を吸収して光合成によって樹体をつくり二酸化炭素を固定する。でもそれ以外の時期には呼吸によって二酸化炭素を放出もしている。そしてやがて樹木が枯れて朽ちれば微生物によって分解され空気中の酸素と結合して二酸化炭素となる。燃やしてもやはり空気中の酸素を使って二酸化炭素になる。だから正確には「樹木は二酸化炭素を吸収して固定するが、枯死などすればもとと同じ量の二酸化炭素になります」というのだろう。つまり樹木が二酸化炭素を「吸収」してもなくなることはなく、総量は同じということになる。
そうしてみると林立する樹木が二酸化炭素の貯蔵タンクにみえ、切り倒して薪にして燃やすとタンクの二酸化炭素を放出するようにもみえてくるような気がしてくる。でもそのままにしておいてもやがては枯れて朽ちはてて、また燃やしても、同量の二酸化炭素になるのだから、地中深く眠っていた化石燃料を使って大気中の二酸化炭素を増やさないだけいいのでしょうか。
注 もっとも、そもそも「地球温暖化の要因はCO2」という説には疑問が呈されている。確かに科学的にも怪しい理屈である。これについてはいずれ書こう。
もうひとつ、里山の価値(経済的価値を含めて)が見直されることも大変いいことだ。
『地球に優しい』という言葉は実は環境破壊の元凶である企業活動を『優しく』隠すごまかしがあって嫌いだが、とはいえ現実の世の中ではやはり経済的価値がなければ見向きもされないから薪やキノコでもいいから「里山の経済的価値」は大切だ。
’08
* これ以前のものは数年前に書いたものである。 なかには私の仕事に似たことをショーバイにしている人に評判が悪いものもあるらしい。といっても直接私に対して文句や「苦情」も「異見」もきたことはなくそんなウワサがあるらしい という程度だ。 異論反論は大歓迎なので大いに交わすことはやぶさかではないが直接こないものにはどうしようもない。ということで一旦書いたものを消すこともないので残しておくことにした。
- 某年或月 テーラーシステムと労働の自由
「ストーブを造ってみたい」、そんな想いをもった人が突然訪ねてきた。
今年に入ってからもう5人目くらいだろうか、手紙などを含めればこんな出会いが年に10回以上ある。 今回の人はトヨタ自動車系の工場で現場管理職 をしているという。やっとラインから抜けて管理にまわることができたと言っていた。
自動車関係のベルトコンベア・ライン製造は「科学的管理法」と邦訳されているテーラー・システムの典型的な労働職場である。
一人あるいは数人の技能的労働によって行われていた生産活動を打ち壊し 労働過程をひとつひとつの動作にまで分割して課業として労働者に割り当てそれを組み合わせて並べることで生産をおこなわせる。 熟練労働者の労働を観察し、仕事でもちいている基本的な動作をストップウォッチで測り最速の方法を選び、むだな動作や遅い運動を省き、一番早い一番いい運動と一番いい用具を集めて1系列に作り上げる。
創始者のティラーはこうも言っている。「諸君は考えてはいけない。考えるための人は別にいる。」 労働者はただ決められた通りに手足を動かし続けることだけが求められているのである。
つまり、課業の標準化を通して仕事を硬直化させ、人間そのものを道具化したのである。
現在のあらゆる生産のほとんどすべてがこのティラー・システムにもとづいておこなわれている。その結果仕事−働くことはつまらなくなった。自分の労働は常にひとかけらでありそれが作られたもののどこにあるかもわからないのである。
「手作りの」「職人」「こだわりの」などの言葉のついた物や仕事への関心が高まっているのも労働現場のそんな現実があるからだろう。
自分で最初から最後まで物を作ってみたい。 労働の自由さ、そんな想いから木工や陶芸などの仕事、農業、調理人そしてストーブ屋にも憧れる人があるのだろう。
先の彼も言っていたが、企業に勤めていれば労働に自由さはなくてもそれなりの収入の安定がある。それを捨てるには決意が必要となる。 野良の一匹くらしも傍でみるほど楽でもない。
この世の中では自由さと不安定はワンセットになっている。 それだけによけい不自由さを感じるのかも知れない。
でも、そんな世の中の方がよっぽど変だとは言い続けていないといけないだろう。
- 某月或日 似る 真似 にせる まねる
探し物があって久しぶりにインターネットを回って驚いた。
なんと私の書いた文章が他人のHPに使われている。それもストーブ販売業者のコピーに使われているのだ。
さすがにそっくりそのままではマズイと思ったのかひらがなを漢字にしたりしてちょっと変えてある。
- 原文 薪ストーブには人の肌にあった暖か さと心をときほぐす温もりがあります。
業者HP 自然の炎の温もりには、人の肌にあった暖かさと心を解きほぐす効果があります
- この文章の前後には「オリジナルのデザインよりその設計施工まで、統括した責任施工」 「エフエムプランの20年間の経験をお役立て下さい」 などと書かれているが、おぃおぃ、人の文章を黙って使っているくせに本当かよォ!?と思ってしまう。
- このフレーズは自分でも気に入っていてHPだけでなく展示の時やリーフレットやパンフ、チラシ数万枚に10年以上使っている。 まぁ たまたま似てしまったという言い方もあるだろうが、ご同業でここまで同じでは言い訳にはなるまい。 探せばまだあるのかも。
- そのほか、私とほとんど同じようなことが書いてあるHPがあるけどお弟子さんの?と知らせてくれる人もいる。こちら(北澤アート)の方は、以前「ストーブを造りたい」と訪ねてきた青年である。教えながらその時渡したリーフリットをなぞってHPも作ったようで、もう少し自分で考えたほうがいいのにと思いながらもいずれ自分の考えがまとまるようになれば変えるだろうとそのままにしてある。
- それにしても私のはじめた「薪ストーブのオーダーメイド」というやりかたをするところが最近ふえてきたようだが、それはそれでいいことだと思っている。
- ところが、近頃ストーブのほうでも展示しているときなどに 「同じストーブ見た」と言われることがある。聞いてみると誰かに造ってもらった手造りだという。設置場所などを確かめても仕事をした覚えのないところである。話しの感じではどうやら写真や雑誌などに掲載したのを真似ている奴がいるらしい。確かに展示会などでは写真を撮っていく人もいる。ちゃんとことわる人もいるが怪しげな人もいる。こちらもいちいち言うのも嫌だからどうぞと撮らせている。でも、お互いに物作りをやっているのだから、真似るときは一言挨拶をするなり最低のモラルというかルールだけは守ってもらいたいものである。
- もっとも、内部の構造は見えないから燃え方まではマネできない。(^.^)
- 某月或日 日本で薪ストーブはなぜ高いのだろう
- かねてより不思議に思っているのだが、 輸入のストーブはなぜにあのような高値なのだろう。現地では街の金物屋やホームセンターでも500ドルから2000ドル位の自由価格で売られている。同じストーブが日本では20万円から60万円の『定価』を付けてどうどうと売られている。まずは3倍である。
- 別に他人の商売の邪魔をする気などないが、まさか公開されている事実を書いて困る者もあるまい。
- せっかくインターネットなのだから各国のネットで値段を比較してみると面白い。たとえば、米国のバーモントキャスティングのHP http://www.vermontcastings.com/など海外のyahooでいくらでも検索できる。
調べてみると、なんと日本で輸入元が倉庫で代理店に引き渡す値段は『定価』の45%から50%である。まぁこれは卸値であるが、それにしても『定価』30万円といっている物でも現地の小売価格はせいぜい800ドル位−10万円位のものであるから仕入れ値は運賃を入れても8万がところか、それを15万円で卸す輸入元も30万以上で売る代理店もアライ商売をしているものだと感心をしてしまう。気の弱い私などにはとてもできない芸当である。
なるほど外見は洒落ているし仕掛けも作ってある。しかし、鋳物の肉厚は3〜4.5mm位しかないし、鋼鈑ものもホーロー引きなどしてあるが華奢である。当然強い薪を燃やせば焼ききれる。まぁこのご時世だし、アメリカ物ならスクラップ&ビルドの本場だ。実際むこうでは日本の昔あったダルマストーブと同じ様なものである。量産すればやはり8万円とか10万円何某か也の現地価格にみあって作られた品物=価値である。
これに数倍の日本だけの『定価』を決めることができるのは、やはり限られた流通を握る者がいて勝手に決めることが出来るからだろう。
- もうひとつは、薪ストーブに「高級品」「高額インテリア」というイメージの晴れ着を着せているからだろう。
- 現地では街の金物屋や通信販売でホイと売っている物を、ショールームやきれいなカタログやこれでもかのカラー写真入りの雑誌広告で宣伝する。
- 写真も仰々しく周りをレンガの壁で飾り、ピカピカの道具を添えて広い高級別荘を思わせる優雅さに満ち溢れた撮影である。
- 昔ジャガーの代理店が「年収3000万円以下の方にはジャガーはお売りしません」と高級車であることを正面に打ち出した広告を見たことがある。我輩なぞは縁がないから「なるほど高額所得者の高額外車のイメージ作りか」と思った程度であったが、おなじころヤナセに「ヤ○ザにベンツを売らないでくれ」と真顔で申し入れた成金たちがいたが、それと似たような感性なのだろう。
- 輸入の自由化が進み,並行輸入、個人輸入の時代になって最近ではこんな商売ができなくなった。それでも盲点があるようだ。
- 日用雑貨の海外カタログ購入ができるのだからそろそろ輸入ストーブの販売方法も考え直す時期なのだろう、
- ストーブの販売業者の団体が「カルテル」談合組織にならないといいのだが、などと想う。
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- それはともかく、私は職人だから自分のかけた手間にみあえば好でそれ以上を望まないが,自分の手で物を造らない人たちは大した手品をやっているものだと感心をする次第である。
某月或日 薪ストーブは高級品なのか?
お客さんと打ち合わせをしながらつくづく思う。暖炉と薪ストーブのイメージが混同させられてしまっている。これだけ耐火レンガの台と壁の写真をみせられては、そう刷り込まれてしまうのも無理はない。
- 昭和の中頃に「新住宅」が流行った時期がある。ちょっと高級な住宅である。今は一軒に「和室」が一つであとは洋室だが、その頃は逆に和室のほかに応接間などという「洋間」がひとつあるのが洒落ていたのだ。本当のお金持ちならピアノが置いてあった。そうなると「お嬢さま」と言える。
- その「高級応接間」には「マントルピース」が付くのがお約束であった。といっても、レンガを貼った飾り棚の下に造られたくぼみにガスストーブを置く程度のものがおおかった。この燃やせないマントルピースの上には、高級そうな飾り時計があるのもお約束だろう。
- テレビや映画でみる洋画のシーンに映る暖炉のイメージもある。広いリビングの暖炉には炎がゆらぎ、大きなソファーにゆったりと座って家族の団欒がある。
- 気がつかないうちにそんな「高級感」が刷り込まれているのだろうか、マントルピース−暖炉に弱いのである。
- 一方,そのころからつい最近まで日本の薪ストーブ、石炭ストーブの記憶は、なんといっても学校のダルマストーブだろう。それと土間に置いて使われたカマドを兼ねたブリキのストーブ。
- ごく最近の冷暖房完備になる前にあの細めの煙突とファンのついた「ポット型石油ストーブ」が出るまでは、学校のストーブは石炭系が多かった。「エネルギー革命」という名ですすめられた石炭から石油の転換までの時期である。
- 季節になると用務員さんや先生とストーブを運んできて教室の片隅にブリキを張った台を置き、その中に据えて煙突を繋げて窓からだせば冬支度となる。ちょっと壁から離して置くだけで特別な処置もしない。ヤカンを乗せ周りに弁当を並べて暖め、囲みの柵で濡れた手袋などを乾かす。
- 暖炉に比べてストーブは身近すぎて高級感がない、というより日常の生活用具だったのだ。
- 薪ストーブ販売業者の販売戦略は、このギャップのある記憶を結び付け、エコロジーや自然回帰の流れにのって薪ストーブを高級なインテリアとして売り込むことである。
- 耐火レンガで台を築き、壁を積み上げた形は暖炉のそれそのままである。この舞台の上にストーブを置いてあの優雅な洋画のシーンを家庭に再現する。
- 『定価』30万円のストーブと、「安全のための」舞台造りに30万円、煙突に50万円、設置に10万円也で、みごと現地価格10万円そこそこのストーブも総額100万円を超える高額商品へと変身する。
- もちろん安全性は重要である。
- 住宅そのものが変わり、ストーブの熱量も大きくなり、生活様式も大きく変わっている。これにあわせて薪ストーブを安全に使うためには昔のストーブの考えを変えて慎重な設置をしなければならないが、それは必ずしもお金をかけることではないのである。
- 簡単な例は、壁からストーブを1m離して置くだけで、通常の住宅の壁なら何もしなくてもいいのである。レンガの壁を積み上げる代わりに薄い鉄板の遮熱板を置くだけでそれ以上の遮熱効果がある。
- このまま販売業者が考え出した暖炉まがいのストーブ設置のイメージが蔓延すれば、日本の薪ストーブの利用はおかしな方向になっていくと憂えている次第である。
- 某月或日 ギョーカイ
- いったい薪ストーブ業界などという『ギョーカイ』があるものなのかどうかも知らない。
- もともと全国に数人かしかいないだろう薪ストーブを手造りしている者のうちの何人かとは会ったことがあるが、これはとても『業界』ではない。
- 輸入のストーブを販売している人たちと出会ったこともほとんどない。もともと”販売する者”と”自分で造る者”とは別の世界に生きているという認識がある。同じ話しをしていても片方は「どうやって売るか」と考えているし、他方は「どうやって造るか」を考えている。
- だいたい私のストーブは、製作上も既製品のストーブとまるで縁がないように造っているから、会う機会もない。
- 販売というかストーブの販路も、直接使い手と打ち合わせて造ってお渡ししていから販売業者の手を煩わすことがない。幾度か「売らせてください」という親切なお話しをいただいたことがあるが、自分で尻を拭ける範囲にとどめ、手間が精一杯で人様に販売手数料や販売利益を差し上げる余裕なぞないのでお断りをした。本音を言えば、下請けもピンハネも冗談じゃない、物を造る者をもっと大切にしろというところか。
- そんなことで、ストーブを造りはじめて12年間というもの、ストーブを販売している人たちやその「業界」とは無縁できている。
- 「ストーブ協会」?というものができたそうだが、そこともつきあいがない。内容をみると何社かの輸入の大元を中心としてその販売代理店が集まって作られているようである。発行している資料も大半がアメリカとメーカーのマニアルの引き写しである。このあたりの状況も次に書くツーバィフォーとよく似ている。当時私も両政府系の主催でカナダに行って日本導入のための技術研修とネタ集めをした。
- これが同じかどうかは判らないが、この種のような協会にはいい記憶が無い。
- 20年以上も前、建築でツーバィフォーの仕事をしたことがあるが、やはり協会というのが作られた。それまでツーバィフォー工法は、中小工務店や一部のプレハブ会社で研究や普及が行われてやっと日本に定着をしてきた頃だった。いまでは大手となった三井ホームも後発で、技術者も居なくてあちこちから引き抜いていた時代だった。その時三井が音頭をとって国の意向を使い中小を含めてつくられたのがツーバィフォー協会だった。
- 工法の普及や技術開発というのが設立の目的であったが、それまで中小業者に蓄積されてきたノウハウや技術者の情報が協会に集められ、いつのまにか中小業者は下請けになったり無くなったりして「三井ホームの歴史は、日本のツーバィフォーの歴史です」の吉永小百合のCMのようになった。
- 本場のアメリカのように、住宅産業が地元の中小工務店と職人の世界で担われるようになるといい思っていた我輩には、なるほど日本では業界の団体とはこのように使われるものなのだという経験になった。情報を征する者が業界を征する。実際にはたいした情報でなくても集まれば利用できるし、商売の「お話し合い」ができるようになる。
- それはともかく、利用もせず利用されもしないのが一番気楽なのかもしれない。
-
- 某月或日 安全
- ストーブの安全な設置では,自分の経験に固執する大工さんも困る。
- 確かにご自分の家では鉋屑を燃やすストーブを使っているのだと思う。
- でも、どんなに長くてもφ120の煙突を横引きにして、平気で木製のチムニーにシングルの煙突を通す。チムニーのトップを木造で作ってしまう。
- これでは困る。危なくってどうしようもない。
- もともと日本の住宅は開放系である。だから屋内で火を使う方法も囲炉裏や火鉢のように開放燃焼であった。部屋全体を暖めるような暖房は、学校や事務所のようなものができてからでそこでストーブに出会うことになる。
- 後はカマドであるが、実は屋内にカマドが作られたのも遅くなってからである。
- ヨーロッパなどの住宅は逆であるから煙を出すことに腐心をしてきた。その文化を途中から違う土地に持ち込んだのは北米であるが、そのあたりのウンチクは別の機会にしよう。
- カマドと風呂の土管や石綿管、石炭用のブリキ煙突あたりからが日本の煙突となる。その影響があって日本の煙突は正差しで細い。本州の家庭では常時暖房用のストーブは少なかったし和室中心ではなおさらである。主流は台所や土間に置いたカマド兼用で暖房用より炊飯の効率が重視されている。時計型の釜蓋はその名残である。
- このようなストーブ自体の放蓄熱も低く、バァーと燃やして消してしまうストーブを開放性の住宅で簡易設置で使って来た感覚でいるのである。
- まぁ、大工さんからみれば、それまで何をやっていたかわからないような建築にもド素人の奴が、ストーブ専門業者だなどと言って突然聞きかじりの『設置基準』だのどうだのと言ったって信用はしない。
- 実際我輩も、現在のストーブ販売関係者の内どれだけが自分の家でストーブを焚いているか疑問をもっている。
- 炭化火災や煙突火災も経験してみないとその怖さはわからない。幸いといってはなんだが、私もストーブ造りをする以前に飼料会社で工場を燃やす炭化火災を経験したし、実験を含めて煙突火災も何回かやった。そのほか炭化火災の現場も何軒か見せてもらった。
- どんな職種でも同じだが、自分の経験やできる仕事でまとめようとする嗜好があるが、目を変えて見ると別の世界がみえてくる。
- やはり、強い輻射熱や長期間の使用、薪の弱い排煙力、気密性・断熱の高い住宅などなど新しい視線で考えて欲しいと思う。同時に、はじめにレンガ積みありきのようなおかしな「設置イメージ」ではなく多様で安全な設置方法を各職種の知恵を出し合って工夫するべきだろう。
- 某月或日 エァータイト
- 送られてきた雑誌のストーブ記事を見て笑ってしまった。これまでエァータイトを「気密性」と言っていたのが「密閉」に変わっている。
- ストーブのカタログや記事には「エァータイトで気密性があるから」「気密性が薪ストーブの命」くらいのことが書き散らしてある。
- いくらグラスウールのパッキングをいれたからといって「気密性」はないだろう。「薪ストーブに気密性などない」と批判してきたのだが、実際某有名外国メーカーのマニアルでも「紙1枚の隙間に閉まることができる」といばって書いている程度であるのに、エァータイトという言葉だけで一人歩きをさせている。やっとマズイと気づいたのかなぁ。
- 「空気調整が可能な程度の密閉性」あたりの意訳が正確なところだろう。
- 雑誌などの記事のなかには高い広告スペースを買い取った販売業者がいかにも客観的であるかのように書いて自社の販売につなげる「記事広告」がある。そこまで露骨でなくてもネタを提供して有利に書かせる「隠れ広告」である。金もださずにネタだけ出す小生のようなものより、金をだす奴の方が大事にされるのは世の習いである。
- 某月或日 廃材の薪
- 産業廃棄物のトップにあげられるのが建築廃材だろう。なにせその量が多い。
- 私も建築の仕事をしたことがあるのでその処理には困った。また建築主も新築する住宅にはこだわっても古い建物の処分については関心がない。口悪くたとえれば、トイレで水を流して消えればブツが世の中から無くなってしまうような感覚である。建て替えのたいていは親が建てた家を息子の代で新しくするのだが、取り壊しの時に親は涙ぐんだりする光景もあった。万感の想いがあるのは当然である。残念ながら息子や嫁さんはサバサバしたものである。それでも何軒かは古い建物の柱などを使って小道具を作って喜ばれた。こうした気持ちも大切だと思う。
- それはさておき、薪ストーブの利用が里山の復活−活性につながることは大歓迎である。その一方建築の廃材を 薪 として利用することも資源保護の観点からも大切だと思っている。
- その時障害となるのは、建築に使われていた木材には針葉樹が多いことと木材以外のものが混じっていることである。
- 一般に廃材はよく乾燥しているのでいいが柱・板材が主であるからどうしても針葉樹系となる。鋳物のストーブのなかには針葉樹が燃える高温に耐えきれずに割れたり焼ききれてしまうものがある。また針葉樹は樹脂分が多いのでタールやすすが増える。まさか「このストーブは壊れますから」とは言い辛いこともあるのか、鋳物のストーブでは必要以上に「針葉樹はダメ。ナラやクヌギことが薪。煙突が詰まる」といいたてる傾向がうかがえる。
- 針葉樹でも十分に乾燥したものを他の薪と混ぜて高い温度で燃やせば比較的タールも少なくすることができる。もちろん未乾燥やチョロチョロと焚けばベットリとタールがついてしまう。また針葉樹は比重が軽い−密度がない−から量はあっても重量は無くどうしても火持ちも悪く、メラメラ燃えてしまうように感じられる。
- こうした弱点を知って上手に使うのも薪ストーブの使い方だと思うのだが。
- 廃材で困ることのもうひとつは、混入物である。目でわかる石油製品などは薪に切りそろえる時に取り除くことができる。しかし問題は木材に染みこんでいるようなものである。ペンキなどは見分けがつくが防腐剤などは難しい。
- 天然木材を木材用ストーブで燃やしたときにでるダイオキシン類は低レベル(0.019〜0.214ngTEQ/Nm3
- )であるが、廃木材の場合はその60〜140倍、家庭ごみでは1000倍になったというスイスのデーターがある。同じ報告で中小木材燃焼設備の灰中からも廃木材は自然材の数百倍という値が出ている。ヨーロッパでは建築材に防腐剤が使われていることが多いという事情があるが、比較的使用の少ない日本でも防腐剤が使われている率の高い土台材や柱の根周り部分の利用は避けるべきだろう。(参考 ダイオキシン類のはなし−日刊工業新聞社刊)
- その他では、「三河のしょうすけ」さんのHPのなかで、輸入廃材の塩分でストーブが傷む、という経験が書かれている。
- 「しょうすけ」氏は、私のところに「薪ストーブに使う耐熱ガラスは何を使ったらいいのか教えて欲しい?」と聞いてきたときにもそのようなことを言っていたが、客観的な根拠が明示されていないので理解に苦しむところもある。
- 私も調べてみたが、まず公的研究組織で「木材中の塩分やその影響」について調査した結果はなかった。ある意味では問題になった例がなかったともいえよう。ただ、製紙関係で昭和40年代に輸入パルプ原木の塩分によって機械が錆びる問題が発生した例があった。それによるとイカダで輸送し海中保存した原木から天然材の200倍(天然材にはほとんど塩分が含まれていない)の塩分が検出され、対策をおこなったがその後木材の輸送方法も改善されて解決をしたとされている。また、輸入材の製材関係でも同様の問題があったようである。
- 塩分がまったく障害がないしは思わないし高温中では化学反応が早く進むことも理解しているつもりだが、廃材に混じる輸入材に含まれる塩分によってストーブが壊れるほどであるかは不明である。
- 氏のHPにある「ボロリ」と鉄が剥がれるなどの現象は、私も焼却炉などで経験をしているが、廃材を燃やしていた訳ではない。むしろ燃焼をコントロールできずにドンドン燃やしてしまう焼却炉の特性から、温度の上がり過ぎとゴミからの水分や露天においてある濡れや湿気を含んだ灰の放置という問題が原因だと考えている。
- とりあえず私のストーブでそうとう廃材を燃やしている人もいるが、そのような話は聞いていない。
- それよりも、目下のところは塩分の存在がダイオキシン類の発生と関係がでてくるかのほうの解明が大切だと考えている。
- もうひとつ、必要以上に「良い薪」にこだわる風潮が蔓延すれば、里山の活性どころか薪を漁って山を荒廃させ、はては儲けを狙って海外から「薪を輸入しよう」という愚かな輩だって現れかねないことを危惧している。
’08年6月或日 半商品
労働が労働力商品として機能するのは資本主義的生産関係内のことで、それ以外の生産関係の下では労働は全人間的活動であったりまったく逆に奴隷労働であったりする。しかし、資本主義のもとでも家庭内の主婦の労働のように労働力(商品)といえないものもある。純粋に賃労働でない労働は商品としての労働力の支出とはいいきれない面をもっている。
マルクスは、商品としての労働力は商品の価値と使用価値とをつくりだすという。でも家庭内の主婦のような労働は使用価値はつくりだすが価値はつくりださない。だがマルクス経済学では、商品としての労働力のつくりだす使用価値と先の主婦のような労働のつくりだす使用価値を区別していない。
菓子メーカーの菓子は商品価値を目的として作られる。もちろん食品としての使用価値も含まれるがそれは商品として「売るため」の範囲においてである。一方主婦の菓子は家族を喜ばす食べ物としての使用価値を目的として作られる。こちらはもともと商品価値を目的にしていないので価値はつくりださない。それどころか愛情や作る楽しさなどから商品価値には取り付いているコストの制約も無視されることがしばしばである。
使用価値ついてみたとき、味についてはそれぞれの好みがあるしても、菓子としての使用価値にも両者には質的な違いがあるように思う。高級料亭の料理と家庭の手料理との違いのようなものである。この違いの中にはその生産過程に投下されたのが労働力と労働という質的な違いが関係していると思われる。
すなわち商品としての菓子は資本的生産手段と非技能的労働力を結合して作られ、主婦の菓子は家庭の調理道具と主婦の「技能」によって作られる違いによるものである。技能の効用である。技能とは職人などの職業的なものから主婦のもつような家事そして日常のくらしのためのさまざまな伝承的な知恵までを含む。
職人のつくりだす商品についてはしばしばこうしたものがみられる。「手作り」とか「温もりがある」と感じられるだけでなく、ときにはその作品が芸術品として評価されることすらある。
職人も当然売るための商品をつくるのであるが、その過程の労働のなかでは「商品」で儲けるより自分自身の「技能」の向上とかより良いものを作ること自体が目的になっていくことがある。
職人的労働の場合、技能はその職人の身体につく能力であり、その能力とその職人とは不可分である。それは単に職業上の能力としてだけでなく職人にとっては人格をふくめた自分自身の向上と不可分のものとなっている。そうした時、職人は商品をつくりながら自分自身をもつくっていくことになっていくのではないだろうか。
主婦のつくる菓子と同じように商品価値とは違うものがそこには含まれることになる。
「商品価値」を目的としながら、作ること自体や作る過程での作り手自身の労働を豊かにするために造られた「商品」。
この使用価値と技能との関係については経済社会学者 故 渡植彦太郎(松山商大、「仕事がくらしをこわす」など農文協刊)が技能の創造性をつかみあげるとともに「限界効用の出現は使用価値の終焉を意味する」と解き明かしている。
さて、主婦の菓子も例えばその評判が良くて「販売をする」ことになった時商品に変わり価値が現れることになる。価値と使用価値とのせめぎあいのなかで「技能」と作り手と買い手との関係性によっては「商品」になりきらない非商品として尻尾をつけた「半商品」として新たな関係性をつくりだしていくことも可能である。主婦にとってはより多くの価値を生産して単なる商品販売者に転落するのか それとも新たな関係性によってより「技能」を高めて使用価値の充実をはかるかである。こうした点については 哲学者 内山節(立教大、「自由論」岩波刊など多)が労働過程の解明を基礎とした哲学であきらかにしている。
薪ストーブとはいささか関係のないようなことを書いたが、私にとっては造り手としてストーブを造る労働の意味とその成果としてのストーブ、そしてそれを使う使い手にとって大切なことと思っているので。
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